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日本ふるさと沈没






日本ふるさと沈没


リメイク『日本沈没』公開に先駆けたメディアミックス企画のパロディアンソロジー。おそらく、オリジナル『日本沈没』公開時に劇場で見た世代の漫画家を募ったものと思われる。
タイトルにも有るとおり、収録作家の生まれ故郷のみ沈没するというバカバカしいお題のテーマアンソロジーである。
半分以上、知らない漫画家で占められているものの、吾妻ひでお/あさりよしとお/唐沢なをき/とり・みき/いしいひさいちが一堂に会する機会は捨て置けないのであった。
意外なトリビアとしては、寺田克也といしいひさいちが共に岡山県出身ということ。まぁ、出身県と育った地域は別物という
例はいくらでもあるわけだが、ちょっとビックリ。
かつ、一番注目すべきマンガも、このお二方の手になる作品であったというのも、妙なシンクロニシティである。特にいしいひさいち
御大の作品は、抱腹絶倒。沈没という事象ではなく、沈没を前提とした岡山県民移民計画について、例によってディープでトリビアルな知識を駆使してしょーもないブラックユーモアを紡いでいるのだ。
しかもこの手法は、正しくオリジナル『日本沈没』のテーマ性を汲み取ったパスティーシュになっているわけだ。戦後日本のアイデンティティ問題について、国土を失うという形で完膚なきまでに破壊された状態で、島国日本が国際化を余儀なくされる苦渋が、オリジナル映画クライマックスで描かれる文芸的見せ場であり、重厚なテーマあったわけだ。
このシーンでの一縷の希望は、丹波哲郎首相のポジティブな発言であるが、現実は、日本の首領、島田正吾の憂鬱通りなのである。「近代国際社会において雛鳥にも等しい日本人が、異文化の中で生き残っていけるのであろうか?」という概意のセリフこそが、『日本沈没』のテーマであった。それについての辛辣な回答が、いしいひさいちの作品なのである。
あれから三十数年、日本人のアイデンティティは更に迷走を続けている。逆にだからこそ、国際社会でゴキブリのごとく生き残っていけるのではなかろうかとも最近思い始めたので、この可笑しさがまた一塩なのであった。


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廃墟ホテル

昨年あたりから日本で再評価されはじめた、デビッド・マレルの新作。都市探検者と自称する、廃墟好きの一行が遭遇する恐怖の一夜を描いた意欲作である。紛れも無く2006年という現在において「モダン」なホラーであると同時に、極A級のAFでもあるのであったよ。


かの『ランボー』の原作者として、AFファンの間では知られていたデビッド・マレル。だが、80年代後半のホラーブームの渦中で、実に個性的なアイデアをもって人狼伝説に挑んだ『トーテム』は、内外のファンを喜ばせたもんだった。その『トーテム』が再販されて間も無くの、ホラージャンルでの新作の登場である、期待するなという方が無理なのである。


廃墟ホテル

「廃墟」というテーマの選定が実に今日的である。しかも、舞台となるホテルは唯の廃墟ではない。血友病の故、生涯引き篭もって暮らした大富豪。彼が夢見ながら実現することができなかった海外旅行への憧れと歪なエキゾチズムは、アステカのピラミッドを模した超高級ホテルへと結実する。20世紀初頭の出来事だ。


そして彼は、自分の建てたホテルのペントハウスに引き篭もりつつ、ホテル内に設えた全客室に通じる秘密通路から覗き見る宿泊客の生活とメディアのみを世間との接点としていた。そして、60~70年代の動乱の時代を経て、近代アメリカ社会を看取るかのように、オーナーは自殺していたのだった。


時代の趨勢に取り残され営業を停止してもなお、管財法人によって取り潰されるでもなく手を入れられるでもなく、野ざらしにされたまま今日に至る「廃墟ホテル」。その中には、ホテル内に取り残されたまま、三十年に及ぶ近親交配の末奇形化した猫や鼠が巣食っているのだった。


物語前半で語られる廃墟ホテルの描写は、21世紀の「幽霊屋敷もの」に相応しいおぞましさに満ちている。そして、廃墟の闇を闊歩する恐怖の正体とは。。。。 いやもう、この「恐怖の正体」というのがね、アイデア、構成ともに「やられた!」という嬉しい裏切りがザクザクと心地よい。いや、ホラーだから心地悪いと言うべきだな。


主人公のキャラクター造詣もまた、実にタイムリーかつマレル節が効いている。これは、悪く言えばランボーから一歩も出ていないとも言える。だが、フィクションにおけるヒーローの資質は、過去を乗り越え現在と対峙する克己の強さにこそあるわけで、そういう意味では、マレルの手法もテーマ性もなんら間違っているわけではない。


恐怖に曝される一瞬一秒の刹那を「今」と呼び、「今」を生きる事に全力を傾ける主人公の姿は、感動せざるを得ない。


ナイト・オブ・ザ・リビングデッド

こないだ買っていた『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』DVDで観る。寝しなに観る映画ではないな(w。

カルトの殿堂入りしてはや四十年近く経過してるのだが、今回初見。あらゆる「ゾンビもの」の原点に位置する作品なれど、既にしてゾンビが機敏だったり道具使ったりしてるのね。

最早古典の範疇に入るかもだが、色々と考えさせる演出は今日見ても色褪せる事無く、流石の名作であった。

先日上野で見て来たプラド美術館展に出品されていた「エゼキエルの幻視」(1630 フランシスコ・コリャンテス)がちょっと思い出される。まぁ、死者が蘇るというのは黙示録のクライマックス。キリスト教圏においてはある種ベタな終末のイメージなわけで、ロメロ御大の着想になんら影響を与えていないと思う方が不自然である。

だが、本作含め全シリーズにおいて、エゼキエル的人物というか、キリスト教徒を一人も登場させていない所が、ロメロ御大の天才の所以ではないかと思ってみたり。

劇中のニュース映像で、生ける死者を"Gul"(グール≒食屍鬼)という表現を使っていたのもちょっとした発見。後のシリーズでは"Dead"で呼称統一していたはずなので。



『オーメン』

ガチンコすぎて逆に、リメイクする意味を問い詰めたい。オリジナルを礼賛する「?」映画

MOVIXさいたま。






オーメン666




なんで今、このタイミングで『オーメン』なのか?といったら、一つの仮説は、キリスト教原理主義の狂信を恐怖のコアに持ってこようという意図しか思いつかない。

冒頭のバチカンでの秘密会議で、ヨハネの黙示録に記される七つの封印の解けるプロセスを実際のニュース映像をインサートして云々のシーンはまさに、三大宗教の一つキリスト教の「トンデモ」な本質を曝け出している、第三者から見れば狂気としか言いようのないシーンである。

にも関わらず、その後の「復活した黙示録の獣」の子ダミアンの描写が、ホントに悪魔の子として描かれているところが、全く持ってアホ臭いのだ。

オリジナルの方では、流産となれない海外生活でノイローゼになったアメリカ大使夫妻のパラノイアとも取れうる演出だっただけに、これは大改悪とも言えよう。

その癖、ナニー首吊りダイブとか、避雷針串刺しとか、カッコーかよ!ダミアンな妊婦突き落としシーンとかいった殺戮描写は全くオリジナルのまま。まぁ、オリジナルの演出の完成度がそれだけ高かったと言う事なのだし、『オーメン』という映画の看板でもあるわけで外せなかったと擁護することもできる。。。が、だったらリメイクじゃなくてリバイバルでいいじゃないか?と思うのが普通じゃないか。

今、『オーメン』をやる意味は、キリスト教徒の狂信をテーマに据える事意外ありえないだろう。

なぜなら、カトリック層の支持を集め不正な選挙で大統領に就任し、その欲望の赴くままの治世によって合衆国史上初の本土襲撃という災禍を齎し、それでもなお、世界的に筋の通らない侵略戦争をおっぱじめて、宗教的紛争を世界中に飛び火させた猿の大統領任期の終わりが近づいているというタイミングだからだ。

そう、政治的な風刺。ブッシュファミリーの断罪という意味が最も大きいはずなのだ。そういう意味では、ダミアンは「悪魔の子」として描いてはいけない。黙示録の獣が顕在し、それは神の名において殺さなくてはいけないというのはキリスト教徒の論理である。それは、ブッシュのイデオロギーの規範であり方法でもあるわけだ。これでは、風刺にも断罪にもなりえんだろう。

なのに、ねぇ(苦笑)。

唯一、オリジナル以上に怖い、ダミアンのナニーの後釜に座ったミア・ファローの描き方が一抹の救いなのかもしれない。この辺で、エンタメとしてのホラー映画の面目は保てたように思う。

でもかつて悪魔の子を産んだ女が悪魔の子の乳母になるという三谷幸喜まがいのギャグが判ってしまう人には、ちょっとダルいかもしれないな。

猫目小僧

見えた見えたぞ怪しい影だ 聞いた聞いたぞ怪しい声だ がんばれぇがんばれぇ猫目くーん コンピだけれど『妖怪伝 猫目小僧』の主題歌がエンドロールで聞けた事だけは拾い物だったかもだ。ニャーゴ


猫目小僧

ある意味で、楳図作品の映画化としては間違っていない出来栄えと言える。。。。いたたまれなさという点において。



楳図作品という曖昧な表現を使うのは、原作『猫目小僧』の映画化はもとより楳図恐怖マンガの映画化として、微妙にベクトルがズレているからだ。むしろ、『まことちゃん』のテイストを感じてしまう。そして、そうしたズレをしての楳図テイストなわけであるため、楳図作品の映画化としては間違っていないのである。


例えば、あらゆる意味で普通のヒトである村の有力者の次男が長男がつぶやきシローであるというだけで、美形の好青年に見えてしまったり、意地悪な美少女の全力疾走(これは、『ロングラブレター漂流教室』の関谷のパロディのつもりなのかもしれない。フン。<猫目小僧調)とか、石田未来の絶叫シーンの手の演技とか。「これはもしかしてギャグなのか?」と思わせる演出は、実は楳図マンガを忠実に実写映像化するとこうならざるを得ないのだろうと思われる。


楳図マンガにおける、恐怖と苦痛以外は全く無表情なの登場人物たち、躍動感を感じさせない動きの描写、そして、主に悲鳴で使われるあの独特の書き文字、こうした楳図マンガのビジュアルな味わい(褒めているので為念)は、一般的な映像手法では個性がつぶれてしまう。オーバーアクト気味のギャグ側に踏み出してしまった演出こそが、あの味わいを伝えることができると思われる。本作で井口監督は、このズレの味わいを遺憾なく映像に塗り込められているのであった。


肉玉増殖の描写。。。罹患者が爛れた手を口の中に突っ込んで増殖していくというアレもまた、実にグロく、かつ、くどくどしく再三登場しインパクトのある演出であった。


だが楳図マンガは、奇抜なアイデアとグロテスクを確かな画力で表現する一方、ストーリー面においては人間の弱さ醜さを徹底して描いているからこそ、ギャグともとれるズレが味わいとなっているわけである。その点においては、観客の対象年齢を絞りきれなかったシナリオ、今日水準では決して出来が良いとは言えない肉玉の気ぐるみや「ないない」の造型は、片翼のない飛行機を飛ばすようなもの。一見アクロバット飛行のように見えても、危なっかしいどころか墜落必至なのである。


断片的には見るべきところは多々あり、ツボを抑えてはいるものの、一本の映画としては、破綻しているとまでは言わないが、ヘンな映画としか言いようのない仕上がりであったと思う。



下膨れで小太りでアクションが硬い猫目小僧については、CVのナルトのヒト(たぶん)の好演で原作のイメージ通りクールなクソガキに落ち着いていたので、不問に付す方向で(w。