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たたり(1963年 ロバート・ワイズ監督)

そういえば原作は、スティーブン・キングが絶賛していたなぁ。温故知新、拾い物の一品。


原作はシャーリー・ジャクスン『山荘奇譚』。ヤン・デ・ボンが『ホーンティング』としてイメイクしたが、これはロバート・ワイズ監督のオリジナルの方。昔の映画のつくりなので平坦な画面構成ながらも、あまりダレる事無く物語が進む。クライマックスの展開の迫力とスピーディーさは正直意外。技術的な理由もあるのだろうが、実に抑えた、ともすれば地味とも捕らえかねない画面構成ながら、思わず見入らせる演出はなかなかのもの。ちょっと捻ったオチも当時としては絶賛されるわけだ。







たたり


あ、ヤン・デ・ボンのリメイク『ホーンティング』は全くダメダメな出来の映画であったことが良く分かった。プロデューサーサイドのオーダーかもしれないが、あのオチはいただけませんな。結果は同じでも意味合いがね、全く異なるイモ演出であった。


んで気がついたのは、『ヘルハウス』はタイトルがこの映画のパロディになっているのね。原作者のマシスンがオマージュを捧げているのかもだ。『たたり』の劇中、舞台となる幽霊屋敷は"Hill House"と呼ばれているのであった。


気がついたこと、その2。原作をキングが絶賛しており、『シャイニング』は実にキングらしく影響を受けているということも分かったが、キューブリックが『シャイニング』を映画化する際、『たたり』からイメージを膨らませていった節が見受けられる。


『シャイニング』の舞台となるOverlook HotelとHill Houseの共通する点、それは、原因は不明だが何か不浄な、祟られているとしか言いようのない場所に建てられた建造物が、住人を求めるが如く狙い定めて来訪者を取り殺していくという点である。たたりの源が何であるかは全く明示されない。怪現象を引き起こすのは、過去にそこで取り殺された人間の怨霊の仕業である事は明確にされているが、なぜ、彼らは取り殺されたのか、何者の意思なのかは全く分からないのだ。このあたりが、本作も『シャイニング』もホラー映画として大変に洗練されている所以である。




そして、原因は分からないまま、が故にそれが正しい認識なのか否かも曖昧なのだが、「たたり」のターゲットとなる人物は建物の意思であると解釈するのである。ターゲットとなる人物は日常生活での不安や心の疲弊を抱え、そこを突かれて取り込まれていくという点も、共通している。


キングは自著『シャイニング』で、Overlook Hotelはネイティブアメリカンの墓地に建てられ、先住民の怨霊に支配されたホテルそのものが怪物と、明示して描いていた。(表現やプロットは別として)定法どおりだが、凡庸なアイデアと言わざるを得ない。翻ってキューブリックの映画は、先述来の仮説が正しければ、キングにしてみれば本歌取りをされたようなものなわけだ。つまり、キューブリックに映画を通じて、自作品のツメの甘さを指摘された事になる。キングがキューブリックの『シャイニング』を気に入っていない理由は、過去のインタビュー等で語っている子供っぽい理由の底に、こういう事があったのかもしれない。


こういう事にまで思いを馳せられるところが、古典的名作の力強さなのである。

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神の左手 悪魔の右手

エンタメとしては選外、楳図映画としては敢闘賞、金子映画としては佳作。うーん、ほめどころが微妙だが、祝!前田愛復活!!


九分入りといえば聞こえはいいが、60人キャパの小屋で、推定25歳以下は一人もいないアミューズCQN。


神の左手 悪魔の右手

本年は、楳図かずお漫画家生活五十周年にあたり、関連書籍の復刻ふくめ喧しい有様なのは喜ばしいことである。だが、劇場公開新作二本が、揃いも揃って「うーん」なのはいかがなものであろうか。。。いや『猫目小僧』も本作も、ロリコン親父が二十年前に撮った『漂流教室』よりは一億倍イイ映画なんだが


本作は当初、那須博之監督を予定されていたらしいが、二重の意味であんなことになっちゃったので、金子修介監督にお鉢が回ってきたらしい。金子監督のファンではあるが、この方、まともにホラーを撮ったことがないわけで、一抹の不安を抱いて劇場に足を運んだら、まんまと的中してしまったわけだ。


ただ「うーん」の要因の大きな一つとしては、脚本のまずさもあると思う。原作を読んでいる人間のみをターゲットにした不親切極まる構成とか、無意味に聞くものをイラつかせるだけのヘンな台詞とか、原作は原作として何かをうったえようと言う、クリエイターならあって当然の気概に欠ける軟弱さなどが、ビジュアルインパクトを重視するが故の「なんじゃこりゃ」感が味だった原作を、上手に料理できなかった要因であるのではなかろうか。原作あるいは原作者に対する愛が欠けているのだな。だから通り一遍な、ストーリーのみを単行本で読んで要約したような、悪い意味での「なんじゃぁこりゃ」な映画になってしまったのではなかろうか?


主人公。。。ちゅうかキーマンの山辺想の超能力には、それをブーストする「想いの背景」として、想が創造した神話世界があったわけで、その辺のところをゴッソリ落としているから、クライマックスが凄く「ヘン」なのである。もちろんこの精神病スレスレの歳の離れた弟の設定は、原作では姉いずみとの関係性にもリアリティとして重みを持たせていたわけである。これを削るだけ削っておきながら、カバーする要素は、脚本レベルでは付け加えられていない。その代わりといっては何だが、心底役立たずの刑事とか出して、これまた失敗こいているわけだ。


あくまで推測だが、楳図御大が『エルム街の悪夢』を観て、これをウメズイズムに熟成させた結果の『神の左手、悪魔の右手』であると思われる。夢と現実が交錯する物語は、整合性に欠けるのは当然といえば当然。また、週刊誌連載ということもあり掲載回ごとのインパクトを重視した結果、単行本で通して読むといろいろ辻褄の合わない所が出てくるのも、まぁ、仕様がないだろう。だからといって、発表から二十年近くたって映画化する際にそのまんま投げっぱなしにしていい方はあるまい。


二つ目は、音楽。なんかどこかで聞いたことがあるような、中途半端なメジャー感が漂うが故の安いBGMを、これでもかと流し続ける。音楽は切ってSEで魅せるのもホラー映画演出の常道なわけで、このへんは監督の責任もあるかもだ。


三つ目は、マーケテンング的読み間違い。夏休み第一週に公開される、夏の定番のホラーものを意識しているのは分かる。R-15もある種英断だ。だが、昨今のハリウッドメジャーのトレンドである「怖くないホラー」への意識が、ブレを生んだのではなかろうか?偶然かもしれないが、『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』と真っ向ぶつかるハメになり、あまり生理的な嫌悪感に訴えかけないようにという、プロデューサーサイドのオーダーがあったのかもしれない。R-15なんだから、バンバカ血を噴出して、イヤな汗が流れるほどに痛々しい描写を重ねれば良かったのだ。もともと、「黒い絵本」はそういう怖さのエピソードなんだし。ただし、そうした映画を金子監督は撮ったことがないちゅうか、むしろディズニー路線に近い方がお得意なわけであるからして(ry。


事ほど左様に、映画としてはダメな部類に入るのだが、原作の「黒い絵本」のビジュアライズとしては、まぁ及第点を挙げていいのではないか。生首の作り物めいた出来はまぁアレではあるが、フラッシュバックでパパのいい仕事全部見せますな殺し方博覧会的な部分がインサートされているあたりは、監督は原作を理解していたと思われ、丸。


そして金子映画としての面目躍如な、美女/美少女のなにげなフェチ描写。『デス・ノート』では皆無であったその辺を、水にぬれて透ける下着こそ無いものの、渋谷飛鳥の入浴シーンや、あんなことになっちゃう前田愛があったので、まぁ良しということにしたい。。。。


これもなぁ。。。欲を言えば、どうせPG-15なんだから、スカートから染み出す血で下腹部創傷を表現くらいの事はやっても良かった気がする。


まぁとりあえず、スレンダーな前田愛復活おめでとうということで。

ウソの歴史博物館

世界は粋な嘘に満ちているのに。。。。日本の民度の低さを痛感するなぁ。

著者のアレックス・バウザーは、歴史を学ぶ大学院生。研究の為に、インターネットの本来的な利用法を通じて考察と事例の収集の為のwebサイトを運営し、そのまとめとして本書を上梓している。

本書では、社会に大きく影響を与え、かつ、犯罪行為ではなく、ジョークとしても広く長く人々の記憶に留められる「ウソ」や「ペテン」を、著者が厳選して時系列的に分類したものだ。「歴史博物館」とは良く銘打ったもので、中世から今日に至る時系列的な「ペテン」の変遷を判りやすくまとめると同時に、社会の変化をコミュニケーションの変化という視点から俯瞰した、極めてユニークな歴史研究書としても読み解くことができる。




ウソの歴史博物館


学術研究書として始まっているところが、日本でよく出版されるwebサイトのまとめ本と大きく異なる点である。だが、そんなことで日本人の民度の低さを嘆いたりはしない。取り上げられる「歴史的ウソ」の事例が、日本のものが壊滅的に少ないのだ。

事例としては、イギリスのものが矢張りと言うか圧倒的に多い。ついでアメリカとなる。中世期のヨーロッパ諸国はしようがないとしても、おそらく八割以上の「シャレになるペテン」事例を欧米諸国で占められている。

シャレになるか否かは、すなわち、ユーモアに対する理解の深さの指標であり、知性や論理性、客観性などの思考力の指標ともいえる。ユーモアへの理解の深さは、精神的なキャパシティの大きさと同義語なのだ。

そうした事を考えると、日本からの事例は、件のゴッドハンド事件のみというのが、実に悲しい。中国ですら、三例お挙がっているのに。。。。この遺跡捏造事件は、本書でも取り上げられている、中世の聖遺物捏造や偽書のペテンと同じレベルである。つまり、日本人の精神性は中世人のそれと変わらないとも言えるだろう。

日本人だって、その素養が無いわけではない。近年では、ヤフーオークションにタイムマシンが出展された例なども挙げられるだろう。だが、本書で取り上げられるには至らなかった。一部ネットワーカーの間の祭りで終わってしまったのは、そうした害の無い不謹慎すら許されない社会が悪いとも言える。

だがもっと本質的な部分。。。つまり、日本の文化において「ペテン」は、犯罪行為あるいは、安易な利益を獲得する手段であって、騙す事を目的とする純粋性が無いからだ。

精神的余裕のない社会は、民度が低いという事になるのではないだろうか?

個人的には、TVの時代にツレっとして、パスタの収穫に勤しむ南スイスの村などという番組を製作して、エイプリルフールでもないのに国営放送でオンエアしてしまうイギリス人の国民性というのが非常に羨ましい。
根強い階級社会と官僚主義の弊害を抱えるおためごかし大国であるにも関わらず、だ。

日本は一生、連合軍に精神的勝利できないのだろうか?



『日本沈没』

あ、そうか、「妖星ゴラス」のリメイクか!んなわきゃないよ。もうホント特撮シーンだけ残して、あとはジャンクにしちまえ!なダメ脚本ダメ映画。

MOVIXさいたま。


草剛が悪いわけじゃないんだが、草演じる小野寺が、もうドウなのよ!という役立たずっぷりでイライラする。ラストで死ぬから、それまで「自分探し」してますってか?未曾有の大惨事が主人公の人柱で全てが丸く収まるって発想が、前近代的矮小さなのだよ。ってか、オリジナルに対する冒涜。


N2機雷とかいう悪質な悪ふざけを入れる知恵があるなら、パニック描写をもっと何とかしろよと言いたい。ご当地シンボルモニュメントが「沈没」するSFXは流石に迫力なのだが、そのプロセスが淡白すぎるのだな。パニックのパの字も無い。


大体、嘘八百の政府発表について、国民が誰も疑いを持たず、唯々諾々と避難命令に従うってのが、現代日本を舞台として、もう有り得ないだろう。この映画の中では、与党の支持率が100%で、インターネットすら存在していないのだな。北朝鮮かよ、この国は。


唯一グっときたのは石坂浩二首相が訪中直前に大地真央と交わす、事実上のモノローグのシーンだが、これとても、まったく生かされていないのね、パニック描写らしいパニック描写が無いんだから。なんとなく小泉純一郎もうすぐ元首相に似せた髪型やファッションセンスなだけに、その末路も含めて「これはもしかして笑うトコロなのか?」と韜晦してしまった。


とにかく、ストーリーもテーマも評価点がほぼ無い駄作。そのA級戦犯は、脚本にあると思いたいのだが、樋口監督の意思がかなり反映されているようでもあり、ちょっと鬱。

『ローズ・イン・タイドランド』

げっ歯類を追う少女はエド・ゲインの夢を見るか?無垢の本質に迫る、大胆不敵なギリアムの思考実験映画。

高層ビルの真下なのにそよとも風の動かない、恵比寿ガーデンプレイスシネマ1。


ローズ・イン・タイドランド

『不思議の国のアリス』をテリー・ギリアムが映画化するということ以外なんの事前情報も得ずに観てきた。『アリス』にオマージュを捧げた小説が原作にあるという事も、見終わってから知ったのであったが。。。。久しぶりのギリアム節というか、そのセンスやテーマ性が大暴走した感が濃厚な快作であったことよ。

ジャンキー夫妻の一粒種ジェライザ=ローズは、躁鬱気質の母になじられつつ父親のシャブを調合するなどヘビーでタフな生活を送っていた。友達といえばバービー人形の首4人分しかいない相当に問題のある環境化にあっても、目だった虐待も受けず、それなりに健やかに育っていた。ある晩、メタドンのやりすぎで母親が逝ってしまう。ローズはその夜のうちに、シャブで脳のとろけた父親に連れられ、まるで逃亡するかのように、「タイドランド」を目指して旅立つことになる。


父が北欧神話に登場する地名を冠した場所は、テキサスのド田舎、荒れ放題の農地のど真ん中にある父の生家であった。頼りにしていた祖母はとっくに死亡。家の中も荒れ放題に荒れていた。到着早々シャブを打って、これまた永遠にイってしまった父親の死を認識しているのかしていないのか、ジェライザ=ローズは現実と幻想の曖昧な世界をナチュラルにトリップしていくのであった


ギリアム「節」というのは、主人公の幻視として挿入される、鮮烈な「死」のイコンにあるわけだが、本作で扱われる死は幻視どころではない。作中の現実として、常にそこに死体が横たわっている。そして、主人公ジェライザ=ローズが幻視するのは、生への渇望でも死からの忌避でもない。現実との境界の曖昧な、バッドトリップのイメージなのだ。それは奇想天外でグロテスクで、ギリアムの原点回帰的なビジョンであるし、本作の大方の評価のポイントであるわけだが、ギリアム「節」の構成要素としては枝葉末節に過ぎない。ギリアムの本質は重ねて言うが、鮮烈な「死」のイコンである。観客に突きつけられる、少女のナチュラルトリップのイメージよりもなお鮮烈な「死」のイコン。それは、作中の舞台となる現実のイメージだ。


絵的には大変に美しい、地平線まで続くかのよな黄金色の海。それは、大人の背丈ほどにも茂った牧草にもならない雑草の群れだ。エド・ゲインの故郷プレンフィールドも、荒涼とした土地柄だったらしいが、こんな風景だったのだろうか?その雑草の海に、傾きかけた白い二階家が、まるでベイツモーテルのような威容でぽつんと佇んでいる。ローズが無意識にそれと認めない、父親の死体。彼女はごっこ遊び、つまり日常の延長として父の死体に女装のメークを施す。父ノアのかつての恋人デルは隻眼の剥製師だ。彼女は腐乱したノアの死体を剥製にし、歪な生と死の哲学をローズに植え付ける。デルの弟で、ローズに初めてできた人間のしかも異性の友人ディキンズは脳手術の後遺症で、10歳程度の精神年齢でしかない。かつてノアの死体があった椅子に、ローズが父に施した女性用のかつらを被り座っている何者かの後姿。ふりかえると、それはディキンズであった。ディキンズとデルの家には、至るところに剥製が置かれている。玄関には、ドアを囲むように雄牛の角が。ローズとディケンズに威圧的な母親のように振舞うデル。彼女の寝室は、二人の母親の死体が剥製にされて安置されている聖域だ


ここまでやられれば、どんなニブチンでも気がつくであろう。『悪魔のいけにえ』と『サイコ』へのしつこいばかりのオマージュの積み重ね。ホラー映画史の金字塔である二作の共通点は、犯罪史上もっとも有名なサイコパスの一人であるエド・ゲインの凶行をモチーフとしているということだ。そう、『ローズ・イン・タイドランド』でのギリアムが描く「死」のイコンは、エド・ゲインなのである。


『サイコ』の衝撃のクライマックスは、アンソニー"ノーマン・ベイツ"パーキンスの、ミイラ化した母の死体のアップと、女装ベイツの多重人格症という診断である。ローズの四人の友達。。。。バービーの首。。。。との対話シーンは、ローズのごっこ遊びとして、一生懸命にそれぞれの性格を演じる少女の、不気味だが微笑ましい姿として描写されている。だが、父ノアの死を境に、ローズは人形の台詞では一切口を動かさなず、アフレコの形で、内なるダイアログとして描写される。つまりローズが自覚的あった空想の友達が、第二第三第四の人格に変貌している様を描いている事になる。言うまでもなくノーマン・ベイツは、ロバート・ブロックとアルフレッド・ヒッチコックによって肉付けされたエド・ゲイン像である。


そして、『悪魔のいけにえ』の気違い一家は、エド・ゲインの死体加工と死体嗜好を描くためにトビー・フーパーが分裂増幅したキャラクター達である。彼らのイメージは、デルとディキンズ姉弟に収斂されていることは言うまでもない。ノアを剥製化した後、家の大掃除をローズと異常な姉弟の三人で執り行うが、ガラクタ類を片付ける一方で、テーブルとノアの剥製が安置されるベッド以外の家具等々は全て廃棄される。そして、家の中は無味乾燥な白一色に塗りつぶされる。大掃除の後、清潔感というよりは寒々とした印象しか残らないノアの生家の有様は、『悪魔のいけにえ』クライマックスの、気違い一家の居間の風景を髣髴とさせる。また、清掃シーンで一部、羽毛が舞い上がる中ではしゃぎまわるローズとデルの姿が描かれる。見ようによっては恐怖の絶叫とも見えなくもないローズの表情が、やはり『悪魔のいけにえ』の前半の山場、気違い一家の邸内が長回しで描かれるシーンを髣髴とさせる。


エド・ゲインという実在のサイコパスが拡散増殖していった架空のキャラクター達を、この映画の主要登場人物達は踏襲しているのである。冒頭で俺が言ったギリアムの大胆な思考実験とは、想像力豊かないたいけな少女が、アッチ側の人間だったらという仮説の元に描く、狂気の正当性であるのだ。いや、狂気という表現は相応しくない。我々の倫理観や美意識とは全く異なる価値体系と言うべきであろう。正当性という言い回しもよろしくない。独自の倫理観や価値観、これを共有できる人との出会いの幸福感。それは、何者にも汚す事のできない、無垢な美しい存在である。汚す何者には、我々の持つ法や社会や倫理も含まれる。というか、倫理に汚された大人がヤクに頼らなければたどり着けないビジョンや体験を、ナチュラルに体感できる、まさにそれこそが究極の無垢であるのではないかというテーマなのだ。


吐き気を催す程にグロテスクな描写を経て確立される究極のイノセンス。この偉業が成し遂げられたのは、ジェライザ=ローズを演じた天才子役ジョデル・フェルランドの存在があればこそである。愛らしく、いたいけな、そしてエロティックな魔の聖性を振りまく美少女が熱演する、エド・ゲインの亡霊。R-15指定も甘すぎるほどに、危険で美しい猛毒映画だと認識できない人間が観客の大多数でありますように。


【参考文献】
実録殺人映画ロードマップ

殺人マニア宣言

レイヤー・ケーキ

陳腐だけど"スタイリッシュ"としか言いようが無い、ロマンノワールの佳作

混まない平日に、ユーロスペース2


レイヤー・ケーキ
コレクターズ・エディション

主人公の名無し(エンドクレジットでも"XXX"と表記されている)は、ハーバ-ド卒のインテリ。ビジネスライクに裏仕事。。。麻薬の中間ブローカー。。。に精を出し、そこそこの小金。。。。庶民レベルで夢想できる程度の遊んで暮らせる額。。。。を溜め込んだところで、組織を抜けようとするが、そうは問屋が卸さない。使える彼を、上が「はい、そうですか」と手放すわけも無い。更なる昇進をちらつかせ、ビッグボスの親友の娘。。。シャブ中のアバずれ。。。の捜索と奪還を命じられる。


更に、小利口な主人公の甘さを見透かしたがごとく、チャラいはずのコカイン取引が、首の一つや二つでは済まない大波乱へと発展していくのであった。


というのが、予告編でも紹介されている、本作のストーリーの骨子である。


主人公は、一言で言うと「シャバ蔵」。。。。タランティーノ監督の007新作『カジノロワイヤル』でNEXTボンド役に抜擢されたダニエル・クレイグ。。。。である。ITベンチャーにはゴロゴロ転がってる類の、頭は良いけれど致命的に経験不足な、が故に世の中舐めきっている若造だ。その甘さゆえに、海千山千のオッサンにうまく嵌められていくわけであるが、そこはタダでは転ばない。二転三転する状況を、文字通り首の皮一枚残して切り抜けていく。そのプロセスをもって、裏社会で生き抜く天与の才を、観るものに感じさせる。


ロマン・ノワールのお約束で、心臓にアイロンを押し当てる拷問とか、わずか20秒足らずでICU行きにするほど蹴りまくるとか、顔半分切れるほどクーラーボックスの冷凍食品に顔を叩き付けるとかいった、尾てい骨がむず痒くなるようなバイオレス描写はあるのだが、その表現が実に洗練されている。しかも、随所に挿入されるブリティッシュユーモアがこれまた秀逸。馳星周的なノワール中のノワールな崖っぷち状況が、なんとなく「憎めない」印象で展開するのも上手い演出だ。


そして、巧みなカット割りと職人芸の演出、上手なデジタルエフェクトをこれでもかと使いこなし、BGMに挿入されるUKポップスと相まって、MTV的な小気味よいテンポで、物語が進んでいくのである。


複線の張り方も絶妙。活字では難しいが映像だから可能な、時価300万ポンドの麻薬の奪還の策は、「あぁ、やられた」と心中で漏らさずにはおれないだろう。とにかく、登場人物の全てが、物語のキーパーソンであるという、実に油断のならない構成なのだ。


そして、衝撃の。。。正直、このオチが来るとは思いも及ばなかった俺の不明を恥じるばかりだが。。。ラストが訪れる。ロマンノワールやニューシネマの影響を受けていない観客には、「ありかよ、ソレ」というサプライズが訪れるだろう。"レイヤー・ケーキ"の暗喩も鮮やかに決まる、が故に遣る瀬無い、でもほどほどの鬱さ加減が味わい深い、拾い物の逸品であった。

『キング コング』

導入部の、大恐慌時代のニューヨークの描写、そうした時代を背景にした主要登場人物のそれぞれの事情など細かく描けていた。ココがキモだと思うのだが、ナオミ・ワッツ演じるアンの魅力をさりげなく、だがキッチリ描いているところが心憎い。







キング・コング
プレミアム・エディション


前半部を通じて、老コメデイアンのセリフや、貨物船内でのロケシーンを通じて、みんながアンを愛しているという意識に向られる。それは、コングをしても例外ではないのだ。


コングがアンを連れて自身の住処、骸骨島を一望できる高い高い山の洞窟の中には、キング・コングサイズの巨大猿の白骨がゴロゴロ転がっている。コングの立場としてみれば、食い物と敵以外の存在を知る術は今まで無かったわけだ。累々と横たわる先代コング達の亡骸が、秘境の王者の悠久の孤独を無言のうち語っている。


そこで、暮れなずむ髑髏島を見渡しながら、アンの文字通り体を張った芸が、物言わぬ野獣に自分は食い物ではなく、何か特別の存在であることを理解せしめるのである。


そして。。。。コングが僅かに反応を示す人間の言葉が"beautiful"だ。ブロンド美女と野獣というアイロニーの構図において、美の概念を夕日に照らされる景色をもって記号化しているところがよい仕事。ここにおいて、アンとコングは等しく同じ感情を有する。女が美で怪獣が醜という、これまた「キング・コングもの」共通のお約束を一気に覆し、かつ、ラストに至るコングとアンの関係性を「もののあわれ」に収斂しているのだ。


このシーンはラストへの複線。エンパイアステートビルのてっぺんで、朝焼けに照らされるニューヨークを眺めるコングとアンの姿に呼応するのである。


だが、キング・コングはエンパイアステートビルから複葉機に打ち落とされなくてはいけないのである。髑髏島とエンパイアステートビルの美しい絵面が溜となってコングの悲劇性をいやますのである。



怪獣のあけぼの

特撮ファンに限らず、映画好きやアート好きにも是非観て欲しいドキュメンタリー






怪獣のあけぼの 幻のレッドキングBOX (プロトタイプフィギュア付 3000個限定生産)



日本の近代芸術史のなかで、高山良策氏の怪獣造詣は不当に軽んじられている。大魔神、ウルトラマン、ウルトラ怪獣たち。。。40年間に渡って、日本国内に知らない人のいない立体造形物を作った芸術家って、他にいるか?岡本太郎の太陽の塔だって、今の十代二十代の人間は知らないほうが多かろう。だが、そんな若い世代も、大魔神やバルタン星人は絶対に知っているのだ。

アカデミズムにおいて、その知名度を持って大衆性として軽んじられているとも考えられる。事実、高山氏本人も晩年までは、怪獣造詣を本来の芸術活動とは一線を引いた、糊口をしのぐ手段として考えていたようでもある。だが、晩年の高山氏は、「四半世紀を超えて抜群の知名度とともに愛される作品」を残しえた自信を抱いていた。おそらく、他の日本の芸術家では類を見ない偉業である事にご自身も気づかれたのであろう。そうした惑いや達観にいたる所まで、本作では言及している。

「大魔神」の特技を担当した黒田義之氏や、「ウルトラセブン」からデザインワークで共に仕事をした池谷仙谷氏など、映像製作の現場からのコメント、高山夫人の当時の証言、ガッツ星人の製作風景を高山氏が8mmで撮影した「ある小さな記録」など、映像史的にも極めて貴重な証言とあわせ、海洋堂社長など現在のサブカルシーンで寵児となっている「怪獣マニア」たちの語る高山怪獣の魅力が、芸術家・高山良策の姿を、ありありと描き出している。

Good Job(^o^b だったのは、池田憲章のコメントか。イロイロ大人事情があった、ウルトラ怪獣のデザインワークを担当した成田亨氏へのフォローが、ナイス。「(高山良策という)前衛画家と(成田亨という)前衛彫刻家の逆アンサンブル」という発言が秀逸であった。

そして、特に重要なのは、GyaOでの配信という特殊な番組構成であったことが幸いしたか、最終二話は「池袋モンパルナス」というタイトルで、戦前の日本美術の状況。。。高山氏が青雲の志を抱いてた時代。。。についても詳しく触れられている。サブカルチャーとしても、マニアックなものとして扱われていた怪獣造詣というか高山氏の芸術活動について、初めて真摯に、ファインアートのアプローチで語られた、記念すべきドキュメンタリー作品である。


さよなら、僕らの夏

この映画を『スタンド・バイ・ミー』みたいだって言う奴はみんな死ねばいい。『蝿の王』と『サウスパーク』と『脱出』を足して三で割った、暗黒ジュブナイル

ユーロスペース1でレイトショー。

家庭の問題が個人の問題に直結するお年頃の少年たちであるが、最終的に子供から大人への分別はおろか倫理観まで、親の所得に左右されるという結末は、なんともやりきれない。そこが暗黒ジュブナイルの所以なわけだ。また一方で、メジャー制作/配給系では決して描かれることのない、アメリカの暗部を抉った、ネオ・ニューシネマとも言うべきポジションの作品となっているのである。

実際、所得の二極化は日本以上に深刻なアメリカ。今週のニューズウィークでも、ミドル層の減少は進む一方で、人口分布的にはピラミッド型はおろか、頭の小さい、いびつな砂時計型になりつつある。それを踏まえて考えると、まだまだ希望的な結末であるように感じられる。

死ねば仏ではないが、殺される少年の人間味について、証拠品として回収されるハンディカムで自身がとり続けた"自分PRビデオ"を通じて描く手法は上手かったと思う。だが、映画の観客として客観的に見ていると、どうしても、この少年を「いいヤツ」とは思えないんだよなぁ。デブで愚鈍で粗暴で下品で。MTVばかり見てるとこうなるぞという、典型的なパターン。自分PRビデオだって、過剰な自意識の発露として、平均年収より上の所得がある家庭の子供だから可能な行為なのであるから。学習障害などと自己申告しているが、これだって怪しいもので、唯の甘やかされたバカでしかないのではと思わせる。

親の豊富な所得が、元々鼻持ちならないキャラクターを更にクズとしている。しかも、母子家庭で母親の溺愛がミエミエ。そう、殺されるデブはリアルなカートマンなのだ。

物語の舞台となるミーン河畔の美しい自然は、超然として存在する。ピクニックの範疇で分け入れる世界なので、自然が過酷に牙をむく事はないが、子供たちの心を積極的に癒すものでもない。超然とあり続ける様が、『脱出』の舞台を髣髴とさせるのであった。

『鏡の中は日曜日』

石動戯作死す!? 名探偵を屠るある提言



鏡の中は日曜日


この作者は大好きだ。常に、「やられたぁ」という心地よい敗北感を与えてくれるから。本作も例外ではない。
『美濃牛』では名推理を『黒い仏』では推理を披露してくれた愛すべき名探偵、石動戯作の訃報は事前に知っていた。まぁ、その死の真相は読み通りだったのだが、意外なアプローチでの「名探偵を屠る」物語を見せ付けられてしまった。しかもこの作者の作品を通読していれば、容易に気がついても良いはずのトラップに、まんまと引っかかってしまった俺がいるのだ。あぁ、悔しい(w。


時効寸前の殺人事件を石動が再調査するというのが、本作の大筋のストーリー。十四年前、仏文学研究の大家瑞門龍司郎の邸宅「梵貝荘」で起こった殺人事件。犯人は逮捕され、裁判も犯人の服役も終了した、完全な過去の事件の再調査なのだ。だがクライアントのオーダーはかなり特殊なものである。それは、この「梵貝荘事件」を解決した名探偵水城優臣の推理に異を唱えることを趣旨としているからだ。
水城優臣は、人気本格推理小説シリーズに登場する名探偵である。石動自身、このシリーズの大ファンであったりする。そしてこの水城シリーズは、実際に起こった事件の顛末を、作者であり語り部鮎井郁介の記録を小説の体裁で出版していたものだったのだ。




「梵貝荘事件」は実際に起こった事件であり、法的には完全に終了した事件である。名探偵水城の活躍、虚構の体裁としても、推理小説誌に顛末まで掲載済みである。だが、人気シリーズとして水城優臣最後の事件と賑々しいコピーを連載中に添えられたにもかかわらず、単行本に収録されないまま十四年の歳月を経ているのであった。なぜ単行本が出版されないか?それは、水城の推理に致命的な間違いがあったからではないのか?


本作の体裁は、名探偵というよりはオプよろしく、当時の関係者にインタビューを試みる石動の姿を描く三人称視点、事件当日の状況を描いた小説「梵貝荘事件」の三人称視点、そして、事件関係者と思しき何者かの一人称視点が、章毎に交互に記される。過去と現在が巧みに入り混じる叙述は、正に「梵貝」(ほら貝の意であるとの事)。メタかつアンチな気配濃厚な「事件」の真相は如何に!?。



あぁぁぁあああ、もうホントに、「梵貝」な構成の、「名探偵を屠る」物語なのだ。本格として極めてフェア。しかも読者を韜晦させる術は超一流の殊能将之。最大級の賛辞として、機会があったら後ろから蹴ってやりたい才能である。あぁ、悔しい。悔しい。またやられた。




DEATH NOTE 前編

ラストに場内騒然「え~」の嵐。その事態のほうが騒然だよ、オイラには。


前編だってこと知らないで見に来てる奴、多すぎの渋谷プライム。


原作はよく知らないのだが、マンガ原作を実写映画化するにあたって、イロイロとあまりにマンガっぽいなぁと思った。特に、キャスティングな。『トゥーム・レイダース』を映画化するにあたって、ゲームCGソックリのアンジェリーン・ジョリーを起用したのと同じレベルの事は出来ていたのではなかろうか、良くも悪くも。L、気持ち悪いくらい似すぎ。


ストーリーというかトリックも、あまりにマンガっぽい。週刊連載だから許されるのかもしれないが、「それはないだろう」な香椎由宇の殺され方。藤原達也の言ってることも矛盾だらけだしな。デスノート、いろいろ応用利きすぎだったり、まぁ、バカミスとしては、なんとか耐えられるレベルのお話かもしれない。


なんでこんな映画をわざわざ見たのかというと、金子修介監督作品だから。んでまぁ先述のように、キレイ系の絵柄にマッチしたキャスティングがひとつのウリなわけだから、さぞやエロいシーンがあるのであろうと期待していたんだが、ソッチ方面は健全そのもの。甚だ面白く無し。

黒祀の島

世界構築とその説得力には定評がある作者だが、現代を舞台に、離島の因習ドロドロのミステリをうまい按配に料理している。


 離島の漁村から脈々と続く地方共同体を、経済的・精神的に牛耳る網元の一族。その命ずるままの町民たちから得られる情報は、何一つ信憑性が無い状況下での、主人公の焦燥感にはひとしお感情移入をそくされる。なぜなら、主人公が得られる情報は当然、作者から読者へと与えられる情報と同じなわけで、全てがミスリードの可能性を孕んでいると思わせれば、これはミステリとして致命的にもなりかねない。


また悪いことに(良いことに?)アンチミステリや新本格といったアヴァンギャルドの存在も読者は知っているわけで、地の文以外の一言一句を「まさか?」という思いを持って読み進めていくことになる。 実はハードボイルドな文体も手伝って、ハードボイルドや暗黒小説を読むような消耗感を読者は味合わされるだろう。


だが、この文体そのものも一つのトリックになっている事が、クライマックスに至ってわかる。 それ故に、クライマックスの鮮烈さは衝撃的であった。実にシンプルな問題解決の糸口は、ガチンコの本格推理の思考法である。そして、その推理の映えを魅せるのは。。。。 この小説の本質を伝えることはネタばらしに直結する。良く出来ているが故に罪作りな、紹介の難しい、本格推理の、○○○ホラーの、そして○○小説の傑作である。







小野 不由美 / 祥伝社(2001/02)

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傑作だと思うのですが!
面白かった!
過程を楽しむ本





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