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ウルトラファイト番外地

これも立派なリメイク






ウルトラファイト番外地



作者本人は裏話として「あの(「ウルトラファイト」の)ユルさを漫画にするのはムリ!」と仰っているが、いえいえ、どうしてどうして。

オリジナルの「ウルトラファイト」のヘタレ感は逆に、いい年にならないと解らないような気がする。少なくとも俺は、直撃の児童時代にはさっぱり面白いと思わなかったが、中学くらいに再放送をみて初めて、そのダウナーな快感に目覚めたもんだ。

一読者の見解としては、本書で語られているプロの漫画家ならではの苦心や試行錯誤は、オリジナル製作スタッフが抱えていた制約と同様の機能を果たし、結果として同じ目線で同じものを観て、同じ心象風景を綴ることができたと思われるのだ。収録作「回転こそわが命」は、「漫画で特撮表現」のひとつの到達点になっている。括目せよ。。。いや「ファイト」で特撮って言ってもなぁ(w。



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ブラック サンデー

便乗商法に幸あれ!「ミュンヘン」大ヒットのおかげで浮上した幻の傑作

原作は、『羊たちの沈黙』などハンニバル・レクターシリーズで有名なトマス・ハリス。映画は上映中止のまま月日は流れ、数年前に原作小説は新潮文庫から発刊されていた。その面白さに身悶えしながらも、一生お目にかかれないんだろうなぁと諦めていた。のだが、「ミュンヘン」が公開できたこと、しかも大ヒットに便乗する形でのリリースである。世の中何が幸いするかわからんなぁ。





ブラック・サンデー


DVDリリースなのでシネスコサイズ当然だけど、海外でのビデオリリース版はビスタサイズだったとか。個人輸入などでビデオを購入した熱心なマニアの言は、シネスコ版の本リリースを絶賛しているのだが、それは正しい。見比べてはいないものの、シネスコサイズでの画面構成は全編実に計算されていて、これをトリミングされてしまったら眼も当てられんなぁというのは良く判る。

ストーリーやキャラクター造詣については今更言うことは無い。個人的に押さえどころのシーンは、主人公カバコフ少佐が、黒い九月の女闘士の情報開示をCIAに強談判するシーンだ。

モサドの情報将校を演じるのはロバート・ショー。そして、交渉相手のCIAライアット大佐を演じるはウォルター・ゴッテル。この二人、『007 ロシアより愛をこめて』で共演しているのだな。ショーはかの有名な「時計の殺し屋」グラントを、そしてゴッテルはスペクターのテロリスト養成所の教官である。しかもゴッテルは、『007 私を愛したスパイ』以降ソビエト海軍のゴーゴル将軍で準レギュラー出演。そしてショーは、『バルジ大作戦』では戦争マニアのドイツ司令官ヘスラー大佐を好演していた。。。。思わぬ師弟再会どころか、なんとも剣呑なキャリアのカウンターテロ責任者二人のランデブーは、思わず口元が緩んでしまうのであった。


ユナイテッド93

『スーパーマン リターンズ』の真反対にあるアメリカンウェイ

MOVIXさいたま。

夏休み興行大作群の影で、かなり興行的に苦戦していたようで。少なくともさいたまでは、上映回数は少なかった。

ボイスレコーダーの記録から、「こうであったであろう」というドラマを再現した、ドキュメントではあるけれども真実ではないという、なんとも微妙なポジションにある映画。が故に、「再現ドラマ」としての徹底した客観性で綴った演出は上手かったと思う。その分、見終わった後の鉄の塊を呑んだような重さもまた一塩なのだが。

とにかく、登場する人物全て実在の人物である。しかも、遺族ふくめ関係者もみな健在で、空港関係者ではご本人まで出演しているのである。そういう状況の中で、こういう映画が作れてしまうアメリカ人の国民性というものは、『スーパーマン リターンズ』とはまったく逆の意で、感嘆せざるを得ない。

無論製作の背景には、事件を風化させまいというプロパガンダとしての意味合いもさることながら、記憶の生生しいうちに作って公開して一儲けというヤマッ気が無い筈も無かろう。

思惑はどうあれ、手段と目的の区別がキッチリつけられるクレバーさが製作サイドでも観客サイドでも持っていられるところが、日本とは大きく異なるところだ。

映画そのものに関しては、言う事は何も無い。吐き気を催す程のインパクトという感動もあるのだということを、久々に感じさせてくれた。

スーパーマン リターンズ

アメリカ人の馬鹿さ加減って時々心底羨ましいぞ!帰ってきた「人間を超えた男」の21世紀事情

「映画秘宝」でのフォビュラスバーカー・ボーイズ両氏のコメントに言い尽くされている本作。スーパーヒーローをあからさまにイエスとして描くのは兎も角、グランドゼロを想起させるシーンにおいて、「あの時スーパーマンが居てくれたら。。。。」という願望をストレートに描けてしまう感性、それが許される国民性って、素晴らしいと思った。

逆に言えば、日本では絶対にあり得ない。。。スーパーマンより洗練されたヒーローを数多排出しているのにもかかわらず。。。この描写は、日本の幼生成熟社会の歪みってのを明確化しているのかもだ。

それはそれとして。

子なる神イエスの偶像としてのスーパーマンは「ダヴィンチ・コード」にまで及び、その辺りはちょっとうそ寒いものを感じないでもないが、これに対するレックス・ルーサーの偽りの神っぷりも徹底されているのが気になった。

「何故、誰もが土地を欲しがるか?それは、唯一生産できないものだから」と言うルーサーは、土地を創出するテクノロジーを手に入れる。それも、スーパーマンの秘密基地から掻っ攫ってくるのだ。この辺、クリストファー・リーブシリーズ二作目までの続編としての本作のポジションに対して徹底している。78年「スーパーマン」では、ルーサーは同じ哲学を持って、ウェストコーストを水没しようとしていたのだから、これと呼応する考え方であるわけだ。

そこで注目したいのは、ルーサーが盗み出した、クリプトンのクリスタルの本数だ。これが、六本なんだねぇ。つまり、創世記で神が天地創造を行った日数分、大地を生成するクリスタルがあるわけだ。念の為言っておくと、神は七日で世界を作ったが、最後の一日は安息日として何もしていない。天地創造の実作業は六日である。

また、天を突く摩天楼が聳え、同性愛者など含めてキリスト教的に乱れているN.Y.が、ルーサーによって崩壊させられかけるが、「その言葉を通じなく」して先触れとなるのは、バビロンの最後の捩りである。これをなさしめた神エホバは誤った記述をされている(正しくはヤハウェ)わけで、神を標榜するレックス・ルーサーの偽りの神っぷりを見事に暗喩していたりするわけだ。

能天気な映画ではあるが、その奥にたゆたう21世紀のアメリカ人気質はいろいろ興味深く、油断のならない作品であった。

あ、プロモーションとして、20日に78年版「スーパーマン」を地上波放映したのは大正解。ロイス他メディアを載せたシャトル発射機能つきジャンボの墜落を救ったスーパーマンの「統計上、飛行機は安全な乗り物で云々」というセリフは、78年版でも使われている。ロイスとスーパーマンの最初の会話でのセリフなのだ。
他にも色々、復習してから観た事で、かなり楽しめたのであった。

王と鳥

噂に違わぬ大傑作!「影響」とか「原点」とかって言葉の利便性を超えて、ジブリの本質を垣間見る

渋谷シネマ・アンジェリカ。

本作の前身『やぶにらみの暴君』の評判の高さは知っていて、ぜひ観たいと想っていた。『空飛ぶ幽霊船』や『長靴をはいた猫』など、古の投影動画長編作品(宮崎駿や高畑勲は一アニメーターとして参加)に大きな影響を与えていたオリジンをようやく目にする機会ができたのだ。

が。。。宮崎/高畑両監督の原点とはよく言ったもので『ルパン三世カリオストロの城』って、まんまこの映画のパクリじゃないか!『未来少年コナン』もほぼ同じことが言えるのだが、こちらはまだ、原点をよく租借してオリジナリティに昇華しているといえる。だが『カリ城』はねぇ、とちょっと興ざめ。

そのくらい、本作『王と鳥』のセンスは卓抜し、完成度も高いのであった。

当初、1940年代から四年の歳月をかけてなお、八割方しか完成できなかった本作は、製作資金に行き詰まり、共同制作者が勝手に未完成版を公開しようとする。

監督のポール・グリモーと製作に参加していた詩人のジャック・プレヴェールは訴訟まで起こして未完成品を陽の目に晒す事を阻止しようとしたが、敗訴。『やぶにらみの暴君』として公開され、世界的に評価されてしまうのであった。先述の東映動画作品は、このバージョンの影響下にある。

そして後にグリモーはこの作品のネガを買い取り、20年越しで作品を完成させた。更に、旧バージョンのフィルムは見つけ次第焼き捨てるという、凄まじい執念を見せ付けたらしい。

このあたりの顛末は、こちらのサイトに詳しいが、この辺の怨念渦巻く製作姿勢って、確かに宮崎/高畑コンビに通じるものがあるなぁ。ストーリーボードまで作って企画が流れた『長靴下のピッピ』を、『パンダコパンダ』/『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』に結実させたりとか、『名探偵ホームズ』上映までの長い道のりとか。

そうした背景は置いて、純粋にダイナミックな構図、センス溢れる色彩感覚、卓越したイメージの本流と、本来かくあるべきセルアニメーション表現の集大成が、時を越えたメッセージ性とエンターテイメント性という背反する二律を内包してなお揺るがせないのである。

あ、本編開始前に、ポール・グリモー監督の短編『避雷針泥棒』の上映があった。これもまた、色彩のセンスやダイナミックな構図のなかでの滑らかな動きが妙に艶かしい、印象深い作品であったよ。

年をとった鰐

あぁ、なんだか身につまされるなぁ。個人的に鬱が入るノホホンダークメルヘン

レオポルド・ショボーの原作を、山村浩二氏がアニメ化。ストーリーの寓意性はもちろん、個性的な絵の魅力をそのままに動かすというのは、中々大変なことかと。単純にコラージュアニメにするならいざ知らず、リアリティとデフォルメの双方を抑えた正攻法のアニメーション作品としての仕上がり具合が素晴らしい。

物語と絵柄が切り離せないシュールでブラックな味わいも絶妙な、大人の絵本アニメーションなのだが、個人的には、鰐の姿が身につまされてねぇ。。。。十数年前失恋の痛みを、今更ありありと思い出すってのも、いい年をして如何なものかと思うのだが。。。。

他、同時上映の、世界のアニメーション作家の短編作品を「山村浩二セレクション」と銘打っての上映。これがまた、楽しみにしていたのだが期待通りの面白い作品ばかりであった。

『ビーズ・ゲーム』監督:イシュ・バテル 1977年製作
生物の進化から最終戦争に至る生命の闘争の物語を、ビーズを使った砂絵調のアニメーションで見せる。テンポの良さがなおのこと、製作過程の気の遠くなるような根気を感じさせる。コマドリしながら、ビーズを一粒ずつ配置していくんだぜ!

『色彩幻想』監督:ノーマン・マクラレン/イブリン・ランバート
1949年製作
前衛抽象画を、これまた前衛ジャズにあわせて動かして見せたような感じ。正直、古臭いと思ったのだが、製作年を見て納得。ただしこれも、音楽に合わせて、意図的に線(筋)状のものが踊るように挿入されており、製作プロセスを想うと、気が遠くなる。

『アリの冒険』監督:エドゥアールド・ナザーロフ 1983製作
蟻を主人公にした『みなしごハッチ』みたいな物語。とにかく、いろんな昆虫が出てくる出てくる。それらをみな、絶妙にデフォルトして作画しているのだが、その動きはきわめてリアル。全く台詞の無いなかで、このリアルな虫の動きだけで、虫たちのコミュニケーションを表現しているところが素晴らしい。。。。。セリフを入れたら『ムシムシ大行進』になってしまうか。。。

『スワンプ』監督:ギル・アルカベッツ 1991年製作
赤と青の二色の軍隊が、沼(swamp)で激戦を繰り広げる。なんとも奇抜なアイデアは、騎士が沈まないよう、馬に風船を結び付けていること。風船の浮力で絶妙にバランスを取って、馬は沼面を蹴って走ることができるのだ。騎士たちは槍のように見える巨大な鋏を武器に、敵の風船の紐を切って相手を沼に沈めていくのだ。
馬鹿馬鹿しいのだが、鋏も馬を捨て、鎧も脱ぎ捨てた騎士が、沼の表面に立つことができるのだが。。。。「蛙と蠍」の寓話を思い起こす苦いエンディングの掌品。

『おとぎ話』プリート・パルン監督 1984年製作
ラテン系の絵柄で、だまし絵的なイメージがダイナミック連鎖していく、痛快なナンセンスアニメ。冒頭とラストのナーバスなギャグが、いいアクセントになっていた。

『フランクフィルム』フランク・モリス監督 1973年
ウォーホールの衝撃とサイケムーブメントの渦中に作られた、自分語り作品。作る手間は当時としては相当なものだが、今なら、フォトショップエレメンツとマクロメディアフラッシュがあれば、誰でも作れる程度のものだし、内容も面白くない。

『リボルバー』ジョナス・オデル/スティグ・バグベスト/ラース・オヒソン/マッティ・エンストランド
1993年製作
全編モノクロで、1シーンがひとつのショートアニメのように独立し、その反復を積み重ねていく、なんだか悪夢的な作品。途中で度々インサートされる四桁の数字は西暦と思しいが、なにがあった年だったっけ?


カルパテ城の謎

なんとも馬鹿馬鹿しい、SFスラップスティックコメディ

舞台は、19世紀初頭くらいか?恋人を誘拐された失意のオペラ歌手が転地療養先にそびえる「悪魔の城」カルパテ城に挑む。

村の伝説によるとカルパテ城の縁起は、恋人を浚った悪漢の先祖の山賊が根城にしていたっというものなのだ。そして、村の狩人が城で見た謎の美女は、失った恋人にそっくりな容貌であったのだ。

一方カルパテ城内では、悪男爵が気違い博士を使って、超兵器の開発にいそしんでいるのであった。

というのが概略のストーリー。原作はジュール・ベルヌとの事だが、隻眼隻手の気違い教授が、趣味の月ロケット発射に固執するのはそういう訳だったのか(w。

ノーブルコメディと謳われているが、なるほどギャグはおかったるい。近代史に於いて何かと悲劇的で暗いイメージの漂うチェコでモンティ・パイソンとドリフを足して二で割ったような、馬鹿馬鹿しい映画が製作されたというのが驚き。

ちゅうか監督も主演も同じ人たちで、『アデラ ニック・カータープラハの戦い』なんてのもあるわけで、じつはこういうのが好きな国民性なのかもしれない、チェコ人。

さて主人公は爵位もあるのだが、マリア・カラスよろしく、一度歌いだすといろんなものを破壊する。自身が音響兵器という、ぶっ飛んだ設定だ。

ヤン・シュバンクマイエルが、本作では美術デザインで参加している。この時代設定で、折りたたみバイクだの、自動ドアだの、サラウンドシステムだのの概念を具現化しているのだが、そのデザインワークがユニークである。

中でも、気違い教授の義手が秀逸で、管楽器のシリンダー状のスイッチで義手の先端が入れ替わる(もちろん、モデルアニメーション!)という、アニメ的ナンセンスを具現化している。

そして、シュバンクマイエルと言えば悪夢的なユーモアがウリなわけだが、本作ラストに登場するとある発明品は、彼のセンスが爆発した、かなりグロくてショッキングなビジュアルである。


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太陽

あぁ、日本人では絶対作れないんだろうなぁ。苦悩も歓喜もノーブルな「人間天皇」映画

1・2ブン回しでなんちゃってシネコン状態。焼き魚の匂い漂う銀座シネパトス。

非常に美しい、よい映画だったなぁと。場所も場所だけに、「パラレルワールドの昭和」にトリップしたかのような錯覚を覚えてしまったよ。

極力、史実に準じてはいるもののドキュメントや歴史の再構築を目指した作品ではなく、一個人としての昭和天皇を描くという事を意図しておるわけで、そういう意味では、幻想的過ぎる構成もアリだったかと。

まず第一に、時間軸の構成が幻夢的。時系列的には事実に即しているものの、あたかも一日の出来事のように描かれている。そして、その夢のようなの一日の中で、スケジュールに合わせて目まぐるしく衣装を変える昭和天皇の姿は、現人神であった男の多面性を象徴的に描いているのだ。

それは俺も含む、人生を平成より昭和の方が長く生きている人にとっては、ある種記号でしかなかった昭和天皇の存在を再認識する、素朴な感動を呼び起こす。知識としては知っていたけれど実感として沸かなかったさまざまな立ち場。。。神であり、陸海軍大元帥であり、国家元首であり、科学者であり、父であり。。。それら全てをひっくるめた一人の人間である事を、深く理解できるのである。

その上で、生物学の博士号を持つ昭和天皇が、「神」と呼ばれ奉られる自身に、如何に複雑な遣る瀬無さを覚えていたかを、イッセー尾形の名演技がアリアリと描き出す。

俺が象徴的だなぁと思ったのは、日課としての研究の時間、平家蟹の標本を観るシーンである。研究者としての学術的な分析から、次第に生命の偉大さに子供のように感激していく。その姿は自然に対する畏敬に溢れており、裏を返せば、現人神という不自然な存在に対する絶対の否定なのである。それが無意識的にあふれ出すノーブル故の純粋さは、なんとも微笑ましくも切ない。

ポツダム宣言受諾後、執務室のデスクにリンカーンとダーウィンのブロンズ像を飾るシーンもそうだ。GHQへのご機嫌取りとも考えられるのだが、ダーウィンの持つ意味は大きい。

キリスト教圏では、被創造物を褒め称える事を通じての、造物主礼賛という捕らえ方になるのであろうか。行き着くところは同じく、無意識的に神ならぬ我が身を象徴する昭和天皇の姿ということになるのだろうが。

第二に、映像全体の美しさ。全体をセピアかかったトーンでまとめており、存在した過去をイメージさせる。類推でもなく再構築でもない微妙な視点が全編を通じて、カラーイメージに託されている。

リアリティと象徴性に溢れるセットも見事な出来栄えで、そこに息づくイッセー尾形の昭和天皇像に説得力を与える。無論、先に述べた衣装に象徴される昭和天皇の多面的立場それぞれに呼応して、象徴的に計算されて構築されていることは言うまでもない。

東京大空襲の幻夢的イメージの美しさは、前評判に違わず実に美しい。だがこれと対比される、GHQに出頭する昭和天皇が、送迎の車中から見る焦土東京の風景が、なんとも象徴的なのだ。

上下の区別も儘ならない紅蓮の炎の中を、翼のはえた真鯉のようなB29が、泳ぐようにたゆたっている様を、東京大空襲のビジョンとして、天皇は夢に見る。そこには、炎に追われる臣民の姿はかけらも無い。

だが、GHQに引き出されるときに目にした現実の風景には、瓦礫の中に呆然とする生き延びた人々。。。自分を神と信ずる。。。の姿なのである。現人神の苦悩が個人レベルの鬱勃としたものから、「人間宣言」に至る決意へと結びつく瞬間なのだが、この辺りの構成が、実に上手いのだ。

そして、なんといってもイッセー尾形の昭和天皇像がすばらしいのだ。似ているか否かの問題ではなく、如何に、いろんな意味で難しい人物像を演技者として表現したかが問題であり、卓越した観察眼から、モチーフを掘り下げ膨らませる氏の芸風の本領発揮の名演技だったといえるだろう。

ソクーロフ監督とイッセー氏の間で、如何に演出プランが検討されたかは知らないが、明らかに、イッセー氏のアイデアが通った事が明確なシーンが幾つかある。ハーシーのチョコをダンボール箱一杯に送られてきたシーンでの、佐野史郎侍従長とのやり取りや、学識経験者(東大の学長か?)と日本で極光=オーロラを観ることが出来るか否かの対話のシーンがそうだ。このシーンは、イッセー氏の舞台そのもので、場内爆笑であったよ。

そして、桃井かおりの皇后というのも、絶妙なキャスティングだったなぁ。この夫にしてこの妻ありという感じで、現人神のプレッシャーから逃れた一人の男の憩いの場としての対面シーンは、しみじみとした暖かさに満ちている。以前、イッセーと桃井の二人芝居の舞台録画をETVで見たことがあるが、この時感じた凄みのある食い合いからは想像も出来ない深い夫婦愛が、双方から感じ取れた。やっぱ映画って、第三者のメディアなんだなぁとも思ってみたり。

その後。。。。「人間宣言」を聞いた数多の臣民が自決するのは、史実としてご存知の通り。その第一号がマッカーサー付の翻訳官である日系二世の若者だったというラストに際して、桃井が向ける「あぁあ、やっちゃったわね、アナタ」という視線が凄い。

そう簡単に、皇族と国民の溝は埋まらないのだ。そこの辺りの冷徹な現実を、ノーブル故の能天気さを漂わせるところに、凄みのあるリアリティを観るものに突き付けるのだ。

祝『からくりサーカス』大団円

週刊少年サンデー連載時に読んではいたのだが、クライマックス近辺は飛び飛びだったので、最終巻が発売されてから、改めて感想を述べてみたい。

基本、少年漫画の王道を行く作風の藤田和日郎氏が、九年の歳月をかけて描き上げた、入魂の一作。この長い年月と、筆が走るきらいもある作者故、いろいろと詰めの甘さも目立つのだが、そういう瑣末な事を取り上げて云々いう漫画ではない。前作『うしおととら』の単行本冒頭でも自ら語っているよう、作者は「アンデルセン童話が大嫌い」なヒトなのだ。多少強引でも、ハッピーエンドになるのは自明であり、そこに至るプロセスにおいて十分以上に悲痛な描写を見せられてきたんだから、この終わり方で正解なのだ。

少年漫画史上、最低最悪なキャラクター「フェイスレス(=忠義=ディーン=白金)」を生んだことが、本作の評価点ある。悪の行動原理としては極めて矮小ながら、やった事のスケールのデカさと粘着質な部分が、今までに無いタイプの「悪のカリスマ」であったと思う。しかも、フェイスレスの憎憎しさは、後ろめたさを伴ってある種の「痛い」共感を読むものに強いる本当にイヤな奴だった。この「痛々しさ」が故に、クライマックスの予断の許さない緊迫感を生み出していたのだ。

前作『うしおととら』のラスボス白面と異なって、殺さず改心させなくてはいけないという最終ミッションの重さ。先述のように存在の「痛み共感度(あるいは理解度)」が高いキャラゆえに、「絶対改心なんかしっこない」事が読む方は判り切っているわけだから、描く方も大変だったろう。

実際、サンデー掲載時のラストは、「はぁ!?」という感じだったが、単行本収録に当たって大幅に加筆された描写をもって、納得のいく形になったわけだ。

自己とは、他者との相違点の集積である。徹底したミーイズムの権化フェイスレスがラストステージで、自己と他者との「類似点」を見出してしまったしまった事で、自我にひびが入るというアイデアは良くできていたと思う。そう、正しくは、「改心」というよりは「変節」と言ったほうが正しいのだろう。

単行本の加筆部分。黒賀村壊滅の危機を回避せんとする勝に協力するフェイスレスの行動は、本当に自暴自棄の気まぐれに過ぎなかったであろう。そのスタンスを徹底しながら、過去への想い。。。フランシーヌへの愛慕とは別なべクトルの。。。を抱かせる構成は、上手かったし、泣けた。燃える漫画家藤田和日郎の漢気の結晶とも言うべき名シーンであった。

。。。のだが、フェイスレスは勝の実父である事が、全く触れられていなかったのは残念至極。白金、白銀兄弟の200年に渡る確執の融解に当たって、互いに慕い労るプリミティブな兄弟愛にまとめるのは、美しく判り易い構図ではある。だが、ねぇ。

『からくりサーカス』は才賀勝という少年が漢に成長する物語でもあったわけだし、実際、第一話冒頭に回帰するラストの構成を考えると、そこのところはもう少し練って欲しかったと思う。

勝は、愛する女の為に、父と戦い、勝ったのである。精神的には圧勝だったわけだ。フェイスレスのモノローグは「弟を助けるのが、兄だもんなぁ」ではなく「息子を助けるのが、親父だもんなぁ」で、締めて欲しかったなぁと思うわけである。
からくりサーカス 43 (43)

カックロDS版

この手のゲームはDS向き。以前『数独』をプレイした時にも思ったのだが、パズルそのものは面白くても、鉛筆と消しゴムで書いたり消したりするのがどえらい手間で、それが障壁になって、いわゆるニコリ系のパズルにはあまり手を出していなかったのだ。

この『カックロ』は、タッチペンの操作性のみならず、方向キーとL/Rボタンのアサインも良く考えられており、タッチペン使わなくてもかなり高いプレイアビリティを持っている。つまり、電車の中などでプレイするのに向いているということだ。

また、メモ機能のインターフェースも『数独』よりより洗練されている。ただしこちらは、タッチペン操作の場合だが。

カックロとは、「加算クロスワード」の意。『クロスワード』はボキャブラリ勝負、『数独』は校正作業に似た論理性と根気で解くタイプ。だがこのカックロは、相当に頭を使う。慣れの問題もあるのだろうが、初じめてプレイした感じでは、入門編でも難問ぞろい。脳力トレーニング系のなかでも、数学問題と論理性を鍛えるものに特化したイメージである。

マスの数と当て込む数字にある種パターン化されているものがあり、それは「分解表」として、上面パネルで随意参照しながら解けるところも、DSならではの機能で、大変にありがたい。



パズルシリーズ VOL.4 カックロ

性別が、ない!(2)

勢いがついて、二巻目も買ってしまった。

時系列的には、一巻目よりも以前のエピソードが多い。特に、除乳手術の件は興味をそそられる部分でもあり、結構エグい内容だが、そのあたりのニーズ。。。俺の様な門外漢からトランスセクシャルの方のそれ。。。に応えての収録であろうかと。

全面的な書き直しをしているようだが、作者本人の弁による絵柄の古さよりも、内容そのもののエグさが、一巻目収録の際にボツになった理由であるように思われる。

が、作者のあっけらかんとした態度とかわいらしい絵柄のおかげで、コチラも大笑いして読むことができた。

のだが。。。。作者が友人と、ニューハーフ(性同一性障害認定済み)が切り取った金玉を鍋にして食う件は、「実話ナックルズ」系の際どさがある。だってさ、これって立派な「人肉喰い」のドキュメントじゃないか。

だが、この貴重な体験も、中国でカイコ食った話と同レベルで語ってしまえるところが、この作者のスゴイところである。

あ、もちろん、「半陰陽」と「性同一障害」の違いなどもわかりやすく説明されているので、サブカル初心者向けな内容にもなっている。

性別が、ない! 2 (2)


『性別が、無い~両性具有の物語~』

タイトルどおり、両性具有者である作者の身辺雑記マンガ。

月経周期ごとに性別が入れ替わるという特殊な体質の作者であるが、遺伝子の構造はとか、治療に云々、困ったハナシなどはほぼ皆無である。

まぁ初出誌が『ほんとうにあった笑える話』(コンビニ売りのマンガ誌。読者投稿の仰天のドキュメントをマンガ化している)だったりする事もありーの、作者が元々劇団主催したり、某アート専門学校の講師をしていたりと、ゲイ・カルチャーとは近しい立ち居地にいたりすることもあって、ポジティブな、しかもエロ話に特化した内容になっている。

ただし、こういうマンガが、すくなくともお笑いのネタとして受け入れられるとうのは、いい時代になった証左であろう。

ある種の形質異常で男女性器を有する両性具有が存在することは知っていたが、月経周期で女になったり男になったりという症例が現実にあるとは、しらなかった。

というのも、この症例、日本では非常に有名な架空キャラクター二名が持っていたものだからだ。

一人は、『科学忍者隊ガッチャマン』のベルク・カッツェ。カッツェは本編上も月経周期ごとに女性に「変化」し、女性形態の時はガッチャマンたちをあと一歩まで追い詰める、冷酷かつ優秀なコマンダー「謎の女幹部」として恐れられていた。(正体を隠すために「仮面を脱ぐ」って発想が素晴らしかった!)

優秀な頭脳と身体性能を持ちながら、「畸形」として社会から隔離されてしまった恨みをもって、ギャラクターで頭角を表したのだ。プラトンの超人思想を天野嘉孝のイマジネーションで膨らました程度に思っていたのだが、そんなにリルな考証が成されていたとはと、三十年たって初めてしりましたよ。

もう一人は、山村貞子。映画『リング』では、両性具有の設定(と、もう一つ。ビデオをダビングすれば助かるという理由付けの部分)は一切排除されていたが、原作では両性具有者と明記され、続々編『ループ』の重要なキーワードにもなっていたのだ。

カッツェも貞子も共通するのは、社会的に迫害された結果として、人類に仇為す存在になったということがある。それともう一つに、両性具有は突出した才能の象徴として形質化したものであるという視点である。

偶然とは思うが、日本人気質を裏から象徴するシンボルとしての両性具有が、二十年の時を経て登場したことは興味深い。言い方を変えれば、日本人のマイノリティへの態度は、二十年間まったく変わってはいなかったということになるからだ。

そして、『リング』から十年を経て本作があるわけだ。いろいろ考えるところはあるのだが、日本人は特殊な体質や嗜好について理解が深まった結果と、前向きに捕らえておきたい。

性別が、ない!

ホン!

凄ェな、編集発行がスタジオジブリだよないしいひさいち最新刊

いしいひさいち画伯の文芸モノを中心に、あの広岡達郎センセイの小説作品や、広岡家お手伝いさんのブックレビューなどイロイロ入った作品集。

かの『がんばれタブチくん』からスピンオフした、実在の元野球選手からは大きくかけ離れたキャラクター達の、文芸出版業界暴露モノめいた、ナンセンスな作品群の新作選なのだがブックレビューのコーナーが面白かった。。。。ちゅうか、読む気にさせる名レビューの数々なのだね。

このレビュー、体裁としては文壇の大御所ヒロオカ先生のお手伝いさんが、ヒロオカ先生に送られたままうっちゃってある謹呈本を読んでレビューしているという体裁をとっている。不況不況と言いながら、数多出版される数々の本の中から、小説・ドキュメント・教養本を問わず非常にセンスの光る選定の上、短文簡潔明瞭なお手伝いさんのレビューが心地良いのだ。

あのお手伝いさんは個人的に他人とは思えないキャラクターなので、思い入れもも一入なのかもしれないが、amazonのカスタマーレビュアーなどやっている身としては、非常に勉強になる、名文なのであった。

もちろんオマケ(w に、レビューや紹介された書籍の内容とは概ね関係のない四コママンガがついている。いしいひさいち画伯の『マジカルミステリーツアー』を読んでいる人なら、あのテイストで理解いただけるであろう。

あ、あと、架空の作家広岡達郎の掌編が何作か、実際に小説の形式で収録されている。偽書・偽作を持ってキャラクター造詣や物語に深みを持たせる手法は数多あるが、四コママンガのキャラクターに書き下ろしの小説をあてがうというのは前代未聞。しかも、本当につまらなくて、ヒロオカ先生のキャラクターがすっごく掘り下げられていつのが凄い。

『ののちゃん』で三大新聞連載漫画家の立場を獲得してひさしいだけではなく、そもそも実験とか前衛とは全く無縁なままシャープな切れ味を発揮していたいしいひさいち氏のここに来ての実験作品集としても、一読の価値はあると思う。

『ホン!』 作:いしいひさいち

ゲド戦記

駿ゲンドウvs吾郎シンジの「エヴァンゲリオンごっこ」はどっかよそでやれ!原作者と観客を巻き込むんぢゃあないつうの

ガラ空きのMOVIXさいたま。

評判が悪いという噂だけは聞いていたが、まさかこれほどとはねぇ。

夏休みの劇場公開アニメーション作品として、この動かなさはなんなのかと。ひたすら背景セル、人物が入ってもロングショットが多く、イメージボードを延々見させられているみたい。

人物の表情は変化に乏しく、口の動きが声にまったくシンクロしていない。これは、声優側にも問題はあるのかもしれない(後述)が、もうちょっとさ、アフレコも含めての演出だろうに。

ファンタジーとしての出来栄えも惨憺たるもの。

冒頭の二頭のドラゴンの戦いも、「えぇ!」つうくらい淡白でしょぼくて短くて、「崩れつつある世界の均衡」をこれで感じ取れといわれてもなぁ。しかも、この「崩れつつある世界の均衡」というのも、あとは1シーンのセリフ
だけでしか語られず、後はどこに行ったやらで、ファンタジー世界の肝となる、世界観について全くといって良いほど説明されていない。

説明不足といえば、主人公アレン(原作読んでいないんだが、「ゲド戦記」というからにはゲド≒ハイタカが主人公なんではないんかい!?)が分身する説明も、あんまりに淡白ではないか?物語冒頭で父王を殺すに至る動機が極めて不明瞭なのも、この辺と相補的であると思う。テルーが実は○○○○だったというオチ(?)も、事のついでとばかりに説明不足。

いくら原作が『指輪物語』と双璧をなす超有名な作品だからとはいえ、この突き放した態度はいかがな物か?ちゅうか、刈り込むところと見せるところの優先順位が全く理解できていないように思うのである。

そして、カラっ下手な声優陣。まぁ、ヒロインは素人娘というのは宮崎アニメのお約束だから良いとして、アレンの岡田准一はどうよ?『ハウルの動く城』のキムタクの起用は失敗だったとは認識していないのだろうか?とりあえず女衆動因でそこそこの二の線あてとけっちゅう投げやりな仕事っぷりを踏襲してどうするか。

そして、悪役として一番キモであり、演じる側の論理でも一番オイシイところのウサギも、酷い。誰だこれ?と思ったら、香川照之だった。名優必ずしも名声優ならずということだが、我修院のカルシュファーより下手っつうのはねぇ。

そして、一番の問題点は、ゲド≒ハイタカおよびクモの声と絵の動きが全くシンクロしていないことである。

ハイタカは菅原文太、クモは田中裕子と、キャスティングには全く問題はない。声のイメージも無論そうだが、この二人は、文太は『千と千尋の神隠し』で釜焚きの爺さんを、田中裕子は『もののけ姫』でエボシ御前をと、アニメの吹き替え経験というよりも過去の宮崎作品で高い評価を得た実績を持っているのである。

この二人をしてたどたどしいとしか言いようのない対話シーンが延々と続くというのは、一に口パク動画クォリティの低さ、二にアフレコ演出の悪さしか原因を考えられないのだ。

アーシュラ・K・ル・グィンの原作がそうなのかは未読なのでなんとも言えないが、すくなくともこの『ゲド戦記』は、アイデンティティに不安を感じる少年が、父殺しとその罪の改悛を経て自我を確立させる物語である。これを、自身の名声と資産を背景にアニメはおろか映画作りに全くの素人である息子に作らせた宮崎駿の胸中は如何に!?というのが、大方の最も知りたいところであろうと思う。少なくとも、俺は知りたい。

だってなんだか、息子を自立させるために、世界を破滅に追い込んだ碇ゲンドウと、そこまでされてやっぱりダメ人間だった碇シンジの姿が、宮崎親子の姿にオーバーラップするんだもの。

『エヴァンゲリオン』の是非は問題ではなく、そういうことは他人を巻き込まないでやれと、少なくとも、観客の財布の中身を巻き込むんじゃないと力強く言いたいのである。

地球の静止する日

地球の静止する日―SF映画原作傑作選 レイ・ブラッドベリ/シオドア・スタージョン他 訳:中村融 東京創元社

地球の静止する日
SF映画原作傑作選

今となっては古典となった、B級SF映画の原作小説のアンソロジー。映画原作のアンソロジーという発想が面白い。数多ある50年代~70年代のSF映画の中でも、原作の面白さと大きく乖離していない映画をチョイスしているところが、選者のセンスを感じさせると同時に、捨てるところが無い珠玉のアンソロジーである。評価の高い映画でも、原作が長編だったり詩だったりするものも多いわけではあるが。

さて、個人的に特にオススメなのは、以下の三作。

「殺人ブルドーザー」
映画の方は、スタージョン原作というだけで知名度が高く実際観たら「あぅうぁ」なマニアックなC級SFであった。だが、はっきり言って原作のほうが遥かに面白いし良く出来ている。絶海の孤島で土木労働者を襲うブルドーザーという骨子は同じなのだが、モンスターとしてのブルドーザーの設定や描きこみがやはりちゃんとしているのだ。クトゥルー神話を思わせる冒頭だけで、十分に「あぁ、原作を読めて良かった」と言う気持ちになれる。

「ロト」
映画「性本能と原爆戦」の方は、一時期、親の仇みたいに深夜枠で放映していたので見た事がある人も多いと思う。字幕放映ということもありあんまり面白いと思ったことが無い映画であった。が、小説の方はこれもまた、映画を遥かに上回る面白さ。破滅テーマなのだが、その前哨戦ともいう緊急時避難の模様をジリジリと神経を逆なでするように描写している。
そして、「ヒッチコック劇場」のようなラストが良い。アメリカ人というのは何時いかなるときも、女房への殺意を忘れないんだなぁ。

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