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『ローズ・イン・タイドランド』

げっ歯類を追う少女はエド・ゲインの夢を見るか?無垢の本質に迫る、大胆不敵なギリアムの思考実験映画。

高層ビルの真下なのにそよとも風の動かない、恵比寿ガーデンプレイスシネマ1。


ローズ・イン・タイドランド

『不思議の国のアリス』をテリー・ギリアムが映画化するということ以外なんの事前情報も得ずに観てきた。『アリス』にオマージュを捧げた小説が原作にあるという事も、見終わってから知ったのであったが。。。。久しぶりのギリアム節というか、そのセンスやテーマ性が大暴走した感が濃厚な快作であったことよ。

ジャンキー夫妻の一粒種ジェライザ=ローズは、躁鬱気質の母になじられつつ父親のシャブを調合するなどヘビーでタフな生活を送っていた。友達といえばバービー人形の首4人分しかいない相当に問題のある環境化にあっても、目だった虐待も受けず、それなりに健やかに育っていた。ある晩、メタドンのやりすぎで母親が逝ってしまう。ローズはその夜のうちに、シャブで脳のとろけた父親に連れられ、まるで逃亡するかのように、「タイドランド」を目指して旅立つことになる。


父が北欧神話に登場する地名を冠した場所は、テキサスのド田舎、荒れ放題の農地のど真ん中にある父の生家であった。頼りにしていた祖母はとっくに死亡。家の中も荒れ放題に荒れていた。到着早々シャブを打って、これまた永遠にイってしまった父親の死を認識しているのかしていないのか、ジェライザ=ローズは現実と幻想の曖昧な世界をナチュラルにトリップしていくのであった


ギリアム「節」というのは、主人公の幻視として挿入される、鮮烈な「死」のイコンにあるわけだが、本作で扱われる死は幻視どころではない。作中の現実として、常にそこに死体が横たわっている。そして、主人公ジェライザ=ローズが幻視するのは、生への渇望でも死からの忌避でもない。現実との境界の曖昧な、バッドトリップのイメージなのだ。それは奇想天外でグロテスクで、ギリアムの原点回帰的なビジョンであるし、本作の大方の評価のポイントであるわけだが、ギリアム「節」の構成要素としては枝葉末節に過ぎない。ギリアムの本質は重ねて言うが、鮮烈な「死」のイコンである。観客に突きつけられる、少女のナチュラルトリップのイメージよりもなお鮮烈な「死」のイコン。それは、作中の舞台となる現実のイメージだ。


絵的には大変に美しい、地平線まで続くかのよな黄金色の海。それは、大人の背丈ほどにも茂った牧草にもならない雑草の群れだ。エド・ゲインの故郷プレンフィールドも、荒涼とした土地柄だったらしいが、こんな風景だったのだろうか?その雑草の海に、傾きかけた白い二階家が、まるでベイツモーテルのような威容でぽつんと佇んでいる。ローズが無意識にそれと認めない、父親の死体。彼女はごっこ遊び、つまり日常の延長として父の死体に女装のメークを施す。父ノアのかつての恋人デルは隻眼の剥製師だ。彼女は腐乱したノアの死体を剥製にし、歪な生と死の哲学をローズに植え付ける。デルの弟で、ローズに初めてできた人間のしかも異性の友人ディキンズは脳手術の後遺症で、10歳程度の精神年齢でしかない。かつてノアの死体があった椅子に、ローズが父に施した女性用のかつらを被り座っている何者かの後姿。ふりかえると、それはディキンズであった。ディキンズとデルの家には、至るところに剥製が置かれている。玄関には、ドアを囲むように雄牛の角が。ローズとディケンズに威圧的な母親のように振舞うデル。彼女の寝室は、二人の母親の死体が剥製にされて安置されている聖域だ


ここまでやられれば、どんなニブチンでも気がつくであろう。『悪魔のいけにえ』と『サイコ』へのしつこいばかりのオマージュの積み重ね。ホラー映画史の金字塔である二作の共通点は、犯罪史上もっとも有名なサイコパスの一人であるエド・ゲインの凶行をモチーフとしているということだ。そう、『ローズ・イン・タイドランド』でのギリアムが描く「死」のイコンは、エド・ゲインなのである。


『サイコ』の衝撃のクライマックスは、アンソニー"ノーマン・ベイツ"パーキンスの、ミイラ化した母の死体のアップと、女装ベイツの多重人格症という診断である。ローズの四人の友達。。。。バービーの首。。。。との対話シーンは、ローズのごっこ遊びとして、一生懸命にそれぞれの性格を演じる少女の、不気味だが微笑ましい姿として描写されている。だが、父ノアの死を境に、ローズは人形の台詞では一切口を動かさなず、アフレコの形で、内なるダイアログとして描写される。つまりローズが自覚的あった空想の友達が、第二第三第四の人格に変貌している様を描いている事になる。言うまでもなくノーマン・ベイツは、ロバート・ブロックとアルフレッド・ヒッチコックによって肉付けされたエド・ゲイン像である。


そして、『悪魔のいけにえ』の気違い一家は、エド・ゲインの死体加工と死体嗜好を描くためにトビー・フーパーが分裂増幅したキャラクター達である。彼らのイメージは、デルとディキンズ姉弟に収斂されていることは言うまでもない。ノアを剥製化した後、家の大掃除をローズと異常な姉弟の三人で執り行うが、ガラクタ類を片付ける一方で、テーブルとノアの剥製が安置されるベッド以外の家具等々は全て廃棄される。そして、家の中は無味乾燥な白一色に塗りつぶされる。大掃除の後、清潔感というよりは寒々とした印象しか残らないノアの生家の有様は、『悪魔のいけにえ』クライマックスの、気違い一家の居間の風景を髣髴とさせる。また、清掃シーンで一部、羽毛が舞い上がる中ではしゃぎまわるローズとデルの姿が描かれる。見ようによっては恐怖の絶叫とも見えなくもないローズの表情が、やはり『悪魔のいけにえ』の前半の山場、気違い一家の邸内が長回しで描かれるシーンを髣髴とさせる。


エド・ゲインという実在のサイコパスが拡散増殖していった架空のキャラクター達を、この映画の主要登場人物達は踏襲しているのである。冒頭で俺が言ったギリアムの大胆な思考実験とは、想像力豊かないたいけな少女が、アッチ側の人間だったらという仮説の元に描く、狂気の正当性であるのだ。いや、狂気という表現は相応しくない。我々の倫理観や美意識とは全く異なる価値体系と言うべきであろう。正当性という言い回しもよろしくない。独自の倫理観や価値観、これを共有できる人との出会いの幸福感。それは、何者にも汚す事のできない、無垢な美しい存在である。汚す何者には、我々の持つ法や社会や倫理も含まれる。というか、倫理に汚された大人がヤクに頼らなければたどり着けないビジョンや体験を、ナチュラルに体感できる、まさにそれこそが究極の無垢であるのではないかというテーマなのだ。


吐き気を催す程にグロテスクな描写を経て確立される究極のイノセンス。この偉業が成し遂げられたのは、ジェライザ=ローズを演じた天才子役ジョデル・フェルランドの存在があればこそである。愛らしく、いたいけな、そしてエロティックな魔の聖性を振りまく美少女が熱演する、エド・ゲインの亡霊。R-15指定も甘すぎるほどに、危険で美しい猛毒映画だと認識できない人間が観客の大多数でありますように。


【参考文献】
実録殺人映画ロードマップ

殺人マニア宣言
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